ということで、前々回の続きです。
「いまを生きる」ことについて。
受験勉強を例に挙げましたが、
あなたの心の中では、「いまを生きる」こととつながりましたか?
私がいつも思っていたのは、
「過去は過ぎたからって、未来はまだ来ないからって、
だからって、これで、いまを生きてることになるの?」
という疑問でした。
しかし、本を読んでも、誰かの話を聞いても、
似たような例が多く、よくわからないまま、ずっと放置していました。
ここでいう「よくわからない」というのは、
「自分のモノになっていない」という感覚です。
知識としては知っていて、頭でも理解はできるけれど、腑に落ちない。
「本当は、どういうことなの?」という疑問符がいつもついて回る。
この長年の「?」が、最近やっと解けました。
正しいか正しくないかは、わかりませんし、
言ってしまえば、どこかの本に書いてあること、そのまんまなんですが、
それでも「自分のモノになった感覚」ほど、嬉しいものはありません。
それは、こういうことです。
試験当日のために、受験勉強を一生懸命するのは、
「いまを生きる」ことにはならない。
なぜなら、それは「未来のために生きている」のであって、
「いま、この瞬間」とは無関係だからである。
一方で、物理学の観点では、過去も現在も未来も、
すべてが「同時に存在している」。
ということは、「いま」を生きることが、
そのまま「過去、現在、未来のすべてを同時に生きる」ことになる。
「いま」を生きることは、そのすべてに影響を及ぼす。
すべてはつながっている、とはそういうことでもある。
だから、「ただ、いまを生きればいい」
いま、勉強がしたかったら、勉強すればいい。
いま、誰かと会いたかったら、会えばいい。
いま、本が読みたければ、読めばいい。
そんな好き勝手なことをしていたら、将来困る、と誰かが言う。
そうではない。
その「将来」は、いまここにある。ここに、同時に存在している。
いまを生きていれば、すべてを生きる。
あなたが困ることはない。
。。。言っていること、わかりますか? なーんとなくでも、伝わりますか?
ちょっと話が飛びますが。
若かりし頃の私は、「死ぬこと」を非常に恐れていました。
それはトラウマの影響もあります。
自分は命だけは助かった、そう思って、ずっと生きてきたからです。
ということは、逆にいうと、
「あそこで死んでいたら、どうなっていたんだろう」
という意識が、常に作用することになります。
当時の私は、ものすごく「死にたくなかった」のです。
「私はまだ、何もやっていない、まだ死にたくない、どうか命を奪わないで」
と、いつも思っていました。
生き急ぐように、勉強、部活、習い事に打ち込んでいました。
でも本当は、そこにあった、一種の空しさを押し隠していたように思うのです。
それはこんな思いです。
当日を迎えられず、あるいは目標達成を迎えられずに死んでしまったら、
果たして幸せなんだろうか?
すべてがムダに終わるんじゃないか?
死んだ後のことはわかりませんし、考えても仕方ないし、
仮に死んだとしても、一生懸命やった、というそのことに、
意味があるのかもしれません。
しかし、部活の試合のために一生懸命練習していたら、
やはり、当日を迎えたものです。
自分が中心となって、仕事のプロジェクトのためにいろいろやっていたら、
やはり、日の目を見たいものです。
もうすぐ産まれてくる我が子がいたら、どうしても顔を見たいものです。
いやだ、死にたくない。
(その後、死ぬことしか考えなくなったのですが・笑)
そう思っていた私は、いつも
「いまではない、いつか」のために、生きていたように思います。
もちろんいまも、四六時中「いまを生きている」わけではありません。
過去や未来に、気をとられることもしょっちゅうです。
でも、この気づきは、私に大きな変化をもたらしてくれたように思います。
さて、――あなたは、いまを生きていますか?
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