先日、大学時代からの友人と久しぶりに会いました。
一年半ぶりくらいかな?
いろんな話をしたのですが、そこで彼女から不意に出てきたのが
「私たちって、大学時代、めっちゃポジティブだったよね」という言葉。
しかも二人とも、苦笑いしながら。。。
私と彼女は、長い間、学び場を共有していました。
大学は違いましたが、心の法則や精神世界、自己啓発などにおいて
一緒に勉強していたのです。
――ネガティブは、悪いことだと思ってたんだ
だから、友達がネガティブなことをいうと、
「そんなんじゃダメだよ」ってポジティブを押しつけたりして
という彼女の言葉に、うなずかざるを得ない私。
悩みを相談されて、ネガな部分にダメ出ししたり、
プラス思考を押しつけたりした、黒歴史がよみがえります。
ごめんよ、あの頃のみんな。。。
ナチュラルな陽のエネルギーは、とても気持ちのいいものです。
明るく、軽く、宇宙的なエネルギー。
しかし、「陰のエネルギーを否定した陽のエネルギー」は
どこか歪で、ありのままではありません。
私はそれを「透明なガラスの檻の中に、本来の自分を閉じ込めている」
ようなイメージで、受け取ることがあります。
人の役に立つような素晴らしいことをずっと言っているけれど
その人自身とはつながっていなくて、
誰かから「これが真理で、素晴らしいことです」と教えられたことを、
自分だと思い込んで発信している、ような。
当時は全然わからなかったけれど
大学時代の私や彼女は、まさにそんな感じでした。
あれからお互いにいろんなことがあって
それらを乗り越えて、こうして語り合えるいま
「痛かったね、うちら」と言い合っているわけですが^^;
ナチュラルな陰のエネルギーは
いろんなものを育む水分と土壌と滋養があり、
すべてを受け入れる、地球的なエネルギーです。
喜びも悲しみも、ただのエネルギー。
こっちは良いものでこっちは悪いもの、というジャッジはありません。
しかし「陽のエネルギーを否定した陰のエネルギー」は
じめっとして、暗く、動きも重たくなります。
太陽の光が届きにくい感じです。
彼女は、少し前まで、非常につらい時期にありました。
私もできるだけのことをしようと、飛行機に乗って会いに行きました。
そうして、それを乗り越えた彼女と会っていると、私たちの中には
日の当たらない苔むすような湿地から
ひまわりが咲き誇るような大地まで
マグマのたまりのような地底から
どこまでも昇っていけるような天の高さまで
すべてが本当はあるんだな、と思うのです。
また、別の機会にクライアントさんから
「ガツガツした人が苦手で」という話を聞きました。
それで思い出したのですが、私も超苦手だったんですよね。
ガツガツした人。
いまの私の周りには、公私ともに
そういう人間が一人もいないので、すっかり忘れていました。
その後、たまたま非常にガツガツした人の
ブログを読むことがありました。
一つの記事を読んだだけで、食傷気味になってくる私。。。
うーん、なんでだろう、どうしてこんな反応が出るんだろう、
と思っていたのですが、わかりました。
あくまで私にとってですが
「これが成功だ、こういう成功を求めるのが正しい、こう生きるべきだ」
という、その人が考える成功=人生論、みたいなのを、
押しつけられている感じがしたんですね。
それは、私が勝手に反応していることであり
そのブログを書いている方とは何も関係ないので
その「押しつけられている感じ」を呼吸とともにリリースしました。
(リリースすれば、反応は出なくなります)
それから改めて、いまの私の周りにいる人を思い浮かべると
目指しているところが、自分と共通しているように思いました。
それは陰でも陽でもなく、陰陽の調和した場所、です。
陽だけが素晴らしいのでもなく、陰だけが素晴らしいのでもなく
まさに陰陽のシンボルのように、
同時に存在して、どちらでもない。
その真ん中。フラットな場所。
私たちの心は、刻々と動き続けていて
良いことがあればすぐ舞い上がりますし
嫌なことがあれば落ち込みます。
誰かをうらやんだり、怒りに飲まれたりすることもあるでしょう。
うれしすぎて、周りがみえなくなることもありますね。
真ん中、フラットな場所に居続けることは
いまの私にとっては、容易なことではありません。
というか、すごく難しい。
でも、そういう場所があると知っていることが
悦びでもあります。
そこは、他の誰のものでもない
私だけの大切な場所であり、
かつ、誰の中にもある場所なのです。
(あなたの内側に咲く、花のような。シュタイゲンベルガーホテルにて)
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