マイノリティにもいろいろありますが
自分はマイノリティだろうなあ、と思っていても、
自分と圧倒的にチガウモノと、リアルに対面すると、
やっぱり戸惑うんだな、と実感したことがあります。
私は女性ですが、女性に好かれたことがあります。
(2回くらい)
そのときは全く引いたりしなくて、どちらかというと、
気持ちに答えられなくて申し訳ない、
という感じでした。
が、一時期、北欧に住んだことがありまして。
北欧は、その辺がとーってもオープンで、法的にも差別がなく、
男性同士、女性同士が、私の目の前で、
キスしたり、いちゃいちゃしたり、するのです。
女性同士のキスはまあ、「おお。。。」くらいでしたが
男性同士となると、「う。。。」となりました。
目の前ではちょっと……みたいな。
(これが日本だと、男女でも「おいおい」となると思いますが)
あなたは、槇原敬之の「軒下のモンスター」という歌をご存じでしょうか。
(カミングアウトソングとか言われているようです)
この歌を初めて聴いたとき、私は全然抵抗がなくて、
切ないなあ、良い歌だなあと、しみじみ感じ入り、
差別だのなんだのという、
youtubeのコメントを斜め読みしていたのですが、
その後で、北欧にいたときの、
「う。。。」となった自分を、思い出したのです。
あれ? あのとき私、引いてたじゃん。
この歌に抵抗がないのは、自分にとって、リアルじゃないからじゃないの?
それって、ただの偽善じゃないの? と。
同時に、もう一つ、思い出したことがありました。
一昨年、サンフランシスコのカストロ地区を訪れたときのこと。
カストロは有名なゲイの街です。
そこで私は、カフェに入りました。
手作りのケーキが置いてあり、当たり前ですが、
スタッフはすべて男性で、お客も男性ばかりの紅一点(笑)
普段なら、非常に落ち着かないシチュエーションですが、
そこで私は、ものすごーくリラックスしている自分に気づいたのです。
なぜなら、そこは、「マイノリティの場所」だったからでした。
日本人は、日本ではマジョリティですが
サンフランシスコでは、私はマイノリティでした。
「マイノリティはマイノリティに優しい」
別に何かがあったわけではないですが、
ただ「排除されない」というだけで
「ここは優しい」と、そう感じたのです。
ということは、「なんとなく排除する空気」そのものが
マイノリティにとって、どれだけ息苦しいモノか、
ということでもあります。
マイノリティは、どこにいても、
生きづらい面はあると思います。
自分の気持ちを本当にわかってくれる人は
そう簡単に見つからないかもしれません。
しかし、それをそのまま受け入れ
その上でさらに自分を出して、魅力的に生きている、
多くの人を惹きつけることもできる、
実は、とても強い人たちなのかもしれません。
(マッキーはスゴイ。結論w)
こうして考えると、
「これが自分だ」
「自分はこんなふうに生きたい」
と思うものを、無理に変える必要は、
何もないのだろうと思うのです。
そのままの(本来の)自分であればいいのだと。
ただ、それには勇気がいる。
その勇気を持てるかどうかなのでしょう。
他人になんと言われても、
私はその勇気を持って生きたいと思います。
良かったら、あなたも一緒にいかがですか?
きっと、楽しい旅になるでしょう♪
(カストロのシンボル。レインボーカラーにはそれぞれ意味があるそうです)
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